NHK プロジェクトJAPAN 「日本と朝鮮半島」でまたまたやった偏向
プロジェクトJAPAN シリーズ 「日本と朝鮮半島」 第1回 韓国併合への道
伊藤博文とアン・ジュングン
最も大きな事件から取り上げて日本と半島との関わりをスタートさせる方法は、JAPANデビュー「アジアの一等国」第一回 日台戦争というありもしない対立と同じ手法だった。JAPANデビューに比べれば全般に双方の冷静な説明をとりあげた大人しいものであったが、やはりおかしいところがある。併合の負の部分からしか観ずに、閔妃暗殺へのいいさつが省かれており、安重根についてもその動機が諸説あることが取り上げられていなかったように感じる。
どうしても、日本がすべて悪かったという、GHQによって解体させられたNHKの罪を、自虐史観で日本政府に擦り付ける手法のはじまりである。
NHk:「1895年10月8日、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃(ミンピ)が日本公使・三浦梧楼によって暗殺され、遺体は焼却された。」「これから併合が始まって日本統治に不満に思った安重根は、伊藤博文をハルピンで暗殺した。」「そして朝鮮半島の植民地化がすすんだのです。」
2009年12月27日に放送されたNHKのドラマ『坂の上の雲』の第5回放送において、「朝鮮で大事件が起こった。王妃・閔妃が、三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」というナレーションがあり、乙未事変を三浦梧楼ら日本人らによる単独暗殺事件として描いた。閔妃や乙未事変は原作にはまったく記載が無く、さらに閔妃の圧政や大院君との関係など、当時の朝鮮の国内事情には一切言及しなかった。
◎再放送予定
2010年4月20日(火) 午前0時15分~1時28分(19日深夜) 総合
朝鮮独立と日韓併合
1895年4月、日清講和条約が締結されました。第一条には、朝鮮が「独立自主の国」であることを確認するとうたわれ、宗属関係を廃止することが清国によって承認されました。
開化派政権は、甲午改革とよばれる広範な改革を実施しました。清国との宗属関係の破棄、政府機関の改革、科挙の廃止、国家財政の一元化、税の金納化、両班と常民・賤民の差別の禁止、奴ひ制度の廃止など、朝鮮王朝全般にわたる近代的な改革が矢継ぎ早に決定されました。
1894年10月に朝鮮公使として赴任した井上馨は、大院君を政権から降ろして政治に関与することを禁じ、ついで急進開化派の朴泳孝らを内閣に加えて、強力な干渉のもとに改革を推進させました。この時期の改革では、内閣制の導入、徴税機構の改革、地方制度の改革など、急進的な近代的改革がおこなわれました。しかし、朝鮮政府には日本人の顧問が配置されたり、日本政府によって借款が供与され経済的に日本に従属させられるなど、日本による干渉が深まったことに、政府のなかでも日本に対しての反発がおこりましたが、とりわけ権力から疎外された高宗や王妃閔氏らの勢力はロシアに接近して日本を牽制しようとしました。
井上馨は閔氏らを懐柔しようとしましたが、結局6月に離任し、7月には朴泳孝が王妃閔氏殺害謀議の疑いをかけられ日本に亡命しました。さらに8月には兪吉しゅんらが失脚し、かわって親露・親米的な官僚が内閣に入りました。辞任した井上馨に代わって公使に着任した三浦梧楼は、王妃閔氏の排除を計画しました。10月、朝鮮軍人のクーデターを装って、日本守備隊・公使館員・日本人壮士らが景福宮を占拠して閔氏を殺害し、大院君を再び担ぎ出して親日内閣を樹立しました。ところが、この事件はアメリカ人とロシア人に目撃されており、日本は国際的な非難を浴びることになりました。日本政府は三浦公使をはじめ関係者を帰国させて軍法会議や裁判にかけましたが、全員証拠不十分で無罪・免訴となりました。朝鮮では日本と親日内閣に対する敵愾心が高まりました。
乙未事変(いつびじへん)
俗に「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
事件の背景
高宗の父・興宣大院君は、朝鮮王朝の王族の一人として生まれたが、安東金氏などの外戚が政治を取り仕切る「勢道政治」のさなかにあって、彼は王族内であまり重用されず、厨院、典医監、司圃署、典設司、造紙署などさほど重要でもない部署の提調を務めるなど不遇な生活を送った。
一方では進んで有力政治家と関係を作ったり、一般人との交際を行うなど将来への布石も怠らなかった。1863年、哲宗が嗣子無くして没すると、彼の次男・高宗が後継ぎの国王として即位することとなったため、彼は一躍国王の実父となり、大院君の称号を与えられたのである。高宗は即位当初は幼年であったため、成人する1873年までは大院君が摂政となって政務を取り仕切った(大院君摂政時代)。
鎖国政策
大院君はそれまで朝鮮王朝で続いていた外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした改革を断行する。具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。反面、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。
このような内政政策および景福宮の大規模重建工事を打ち出すとともに、外交面や宗教面では排斥政策を展開した。やがてアメリカや日本などが朝鮮に通商を求めてきたが、大院君は鎖国堅持のためにまたも拒絶、各地に砲台砲兵を配備し、1871年にはジェネラル・シャーマン号事件の賠償を求めて江華島に侵攻してきたアメリカ艦隊を撤退させ(辛未洋擾)、「斥和碑」を朝鮮全土に建設した。このような砲台砲兵の新規増設増員(2万余)、景福宮の重建工事には、多額の経済的な負担が伴い、当百銭の高額通貨の多量鋳造、各種の増税、新税[2]の施行でまかなったために経済は疲弊した。
高宗の妃・閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたとも言われるが、具体的には大院君への怨念ともいえる確執の政治姿勢で貫かれていた。これらの政策が逆に仇となり大院君に代表される反対派勢力による暗殺を呼び込むことになった。閔妃暗殺後、日本は朝鮮の保護国化政策を進めていくようになる。
失脚
高宗が成人し、やがて国民の間でも大院君の強引で強硬的すぎる対外政策や内政に対する不満、さらに両班(朝鮮の貴族階級)の特権を奪おうとしたことから両班からの反発も受けるようになり、大院君は1873年、高宗の王妃・閔妃の閔氏一族の反撃を受けて失脚してしまった。
その後、閔氏から実権を奪い返すため、壬午事変など何度も政権転覆を図ったが失敗。1895年閔妃を殺害したものの(乙未事変)、二度と政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。
大院君と閔妃の対立は、日本の朝鮮進出や朝鮮王朝末期の政治的混乱を招き、それはやがて朝鮮王朝そのものの滅亡、その後の日本統治時代(日韓併合)をもたらす結果となった。
朝鮮政府の対応
朝鮮政府は「王妃殺害を今回計画したのは、私です」などの証言もあったため李周会(逮捕)、朴銑、尹錫禹 3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑している。
さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗は、露館播遷後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)[6]、禹範善(訓錬隊第二大隊長)[7]、李斗璜(訓錬隊第一大隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、権濚鎮(当時警務使)の6名の処刑を勅命で命じている。
大韓帝国の成立
王妃閔氏殺害事件後に成立した親日内閣は、陽暦の採用、朝鮮独自の年号の採用などの急進的な改革をさらに進めました。ところが、1895年12月末に断髪令を公布すると、儒者たちが各地で兵を挙げました(初期義兵)。親日内閣はこの反日反開化の義兵への対応に追われましたが、親露的な官僚らがロシア軍の支援を受けて、高宗をロシア公使館に移しました。親露派はクーデターによって親日内閣を倒し、甲午改革は最終的に挫折しました。高宗は、1897年2月に、ロシア公使館からほど近い慶運宮に移り、8月に光武という年号を定め、さらに10月に皇帝に即位する儀式をおこない、国号を「大韓」と改めました。こうして大韓帝国が成立し、これによって高宗は中国皇帝と同格になり、また欧米・日本と同格の独立国の元首になったことを宣言しました。
1899年8月に制定された「大韓国国制」では、大韓帝国は国際法上での独立国であるとともに専制君主国であるとされ、この皇帝先制権力の元で、自主的な近代的改革を試みました(光武改革)。軍備の増強、土地測量事業、貨幣・金融制度の改革、また、官僚主導による会社設立、電気・電車事業、鉄道敷設や鉱山開発などの殖産興業政策が試みられました。しかし、その財源を確保するために税源が拡大されたり、税率が引き上げられ、また補助貨幣が濫発されました。拡大された財源の多くは軍備増強に遣われ、また王宮の造営・宴会費などの皇帝の権威強化のための支出も膨大でした。光武改革は外国に依存せず自主的な近代化をめざしましたが、その意図とは反対に借款に依存するようになりました。そうして、担保とされた鉱山採掘権などの利権をめぐって列強の争奪戦がおこったり、また列強の利害対立により借款経過于が妨害されるなど、大きな成果を上げないまま中断してしまいました。
安重根と伊藤博文暗殺
伊藤博文は総理引退後、明治37年(1905年)11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。
伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。
安重根は、黄海道の道都・海州の両班の家に生まれる。東学党に反対していた安は追われてカトリック教会のパリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレム司祭に匿われ、洗礼を受けキリスト教に改宗した(洗礼名は「トマス」)1907年の高宗の強制退位と軍隊解散、それに伴う義兵闘争の高まりのなかで危機感を募らせウラジオストクへ亡命、そこで「大韓義軍」を組織し、抗日闘争活動に身を投じる。
統監を辞任、枢密院議長に復帰したが、明治42年(1909年)10月26日午前9時、満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと非公式に話し合うため訪れた会談するためにハルビン(哈爾浜)に赴いていた伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)に対し安重根は群衆を装って近づき拳銃を発砲、大韓帝国の国旗を振り韓国独立を叫んだ。電車内でココツェフの挨拶を受けた後、ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に彼の放った銃弾3発が命中し、伊藤は約30分後に絶命した。安重根はその場でロシア側に逮捕され2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡された。
日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国(韓国)の慈父である。
高宗(大韓帝国皇帝)
しかし韓国併合反対の立場を取っていた伊藤博文の暗殺は韓国併合を加速させる結果となった。韓国の日本の保護国としての現状維持を志向し、日韓併合に慎重な立場であった伊藤博文の死は、逆にそれを加速させることともなり、8月22日、韓国併合ニ関スル条約に基づき、韓国は日本に併合されるに至ったという一説があるが、伊藤が日韓併合に反対していたのか、伊藤の死と日本による大韓帝国の併合がどのような関係があるのかなど不明瞭なところが多い。
大韓帝国のカトリック教会の司教からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、懇意であった洪司祭は彼のもとを訪れ支えとなった。彼も収監中は官吏に対し自分を洗礼名で呼ぶよう主張したといわれる。
後世の評価
安重根への評価は、日本の朝鮮支配に対する立場を反映し、以下のように分かれている。
韓国
大韓民国において安重根は、抗日闘争の英雄と評価され、「義士」と呼ばれる。またソウル特別市には安重根の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている。なお、人間としての安重根については、高潔であったとの評価が韓国では定着しているが、東学党の弾圧等にかかわっているという見方もある(この点についてはかつて平凡社の百科事典の中で触れられていたが、悪政という表記はしていない)。
彼の功績を称えて、韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に「安重根」を用いている。また伊藤博文暗殺から100年にあたる2009年10月26日にはハルビンで記念式典が開催された。特に、「侵略の元凶である伊藤博文を射殺」という事件だけでなく、東洋平和論や教育啓蒙活動など彼の思想を照明する動きも活発になっている。
北朝鮮
朝鮮民主主義人民共和国において安重根の救国の意志は認めるものの、その手段としての「暗殺」は評価しない。「併合に対して消極的であった伊藤博文を暗殺の対象に選んだ」ため[要出典]である。教科書では金日成の反面教師のように扱われる。
参考:映画『安重根 伊藤博文を撃つ』1979年 北朝鮮
北朝鮮がこのようなスタンスを取っているのは、安重根が両班という、すなわち社会主義における階級闘争よって糾弾されるべき立場の人間(ブルジョワジー)であるためとされる。
2009年10月24日付けの週刊誌『統一新報』では「歳月が流れても祖国と民族のために捧げた愛国者の人生は、民族の記憶の中に永遠に残ることになる」としながら「卓越した指導者にめぐり会えず個人テロに頼らざるを得ず、ついには命を投げ打っても独立の念願を果たせなかった民族の風雲児」であるとした。
日本
安重根は暗殺者であるが、その暗殺に意味を付加しうるかどうかは伊藤博文の政治業績をどう評価するかの思想的立場で評価が変わる。
テロリスト説
伊藤博文は大韓帝国の併合には慎重な立場であり、それゆえ「伊藤が朝鮮の独立をのぞんでいた」と見る立場からは、「伊藤暗殺こそが韓国併合を実現させた、あるいは実現を早めた」として、安重根を「先の見えないテロリストである」と評する。
義士説
韓国支配の象徴的存在であった伊藤の暗殺は、民族の独立を願う志士の純粋な行動として、幕末の勤皇志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事から「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声があがるほどであった。これは、立場が違っても、相手を忠義の志と見れば、一定の敬意を払う考えによるものである。日本の教師の中にはこの説を採る者が多い。
人身御供説
伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、伊藤に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が所持していたのは拳銃である。
弾丸は伊藤の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。
などから、伊藤に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説がある。この説においては安重根は事件の真相を闇に葬るための人身御供とされる。(ロシア将校説)
伊藤博文
貧しい少年時代
明治国家の建設に中心的役割を果たした伊藤博文(1841~1909年)は、幕末の長州藩で武士より身分の低い足軽の子として育ちました。青年となった伊藤は、萩の吉田松陰の松下村塾で学びました。人間が出世するのは「すぐれた人との出会い」だと教えられた彼は、若い時から多くの先輩に接し、その才能を認められました。討幕運動の中で木戸孝允に引き立てられ、明治政府では、28歳で初代兵庫県知事になっています。その後、大久保利通にも才能を認められ、若くして参議(今の大臣)となりました。
絶賛された「日の丸演説」
岩倉使節団が欧米に2年近く派遣されたとき、伊藤は大使の岩倉に次いで副使となりました。このとき英語が話せる伊藤は、使節団を代表して演説しました。
その中で伊藤は、数百年続いたわが国の古い制度は、「一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、撤廃された」(廃藩置県のこと)と述べました。そして日本の国旗にある赤い丸は「今まさに洋上に昇ろうとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文明のただ中に向けて躍進するしるしであります」と締めくくりました。これが名高い日の丸演説で、万雷の拍手を浴びました。
伊藤はその後も、日本を欧米列強と対等な力をもつ近代国家にするための事業に、他の誰よりも全力投球して、明治政府の中心的存在となりました。
伊藤は他の元老たちと異なり、生涯にわたって財産も蓄えず、だれとでも分け隔てなくつき合っていました。生前の彼が語った言葉に次のようなものがあります。
「酒を呑んで遊んでいる時でも、私の頭から終始、国家という2字が離れたことはない。私は子孫のことや家のことを考えたことがない。いついかなる場合でも、国家のことばかりだ。」伊藤の活躍を支えたのは、まさにこの「国家を思う心」でした。
わが兵庫県初代県令であり、、45歳で初代の総理大臣に就任した。伊藤博文が残した最も大きな業績は、憲法制定と国会の開設でした。
まず天皇が日本を統治すると定めました。そのうえで実際の政治は、各大臣の輔弼(助言)にもとづいて行うものとし、天皇に責任を負わせないこともうたわれました。国民は法律の範囲内で各種の権利を保障され、選挙で衆議院議員を選ぶことになりました。法律や予算の成立には、議会の承認が必要とされました。議会には衆議院の他、華族や功労ある学者、および官僚出身の議員などからなる貴族院が置かれました。
憲法が発布されると、政府批判の論陣を張っていた新聞も、「聞きしにまさる良憲法」「実に称賛すべき憲法」などど称えました。
また、憲法は翻訳されて、世界各国に通告されました。イギリスの新聞は、「東洋の地で、周到な準備の末に議会制憲法が制定されたのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と書きました。イギリスのある学者は、「日本の憲法が古来の歴史と習慣を元とした穏健な立場で作られていることが最も賛成できる点である」、と述べました。
ドイツのある法律家は、議会を両院に分け、衆議院のほかに貴族院を設けた知恵を高く評価しました。その理由は、「どこの国でも下院(衆議院)は急進的になるものだが、その暴走による社会不安をやわらげるには、国に対する責任感と良識のある人々からなる上院(貴族院)が欠かせない」、というものでした。
明治33年(1900年)には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。政友会はその後、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。
もし暗殺されなかったら、歴史はどうなっていただろうと思うと残念でならない。日本人であるからといって、単なる暗殺者は処罰しなければならないのは法である。恨むなら悪政を敷いて民衆に差別待遇を敷いていた大院君やミンピだろう。伊藤博文を恨むのは逆恨みだろう。
大韓民国における大日本帝国統治時代の評価
独立後の韓国の歴史学者・学会は、大日本帝国による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。彼らの言うところの「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。そうした雰囲気もあって、大日本帝国統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、近代化の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、大日本帝国による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする近代化萌芽論が現れた。
一方、評論家で作家の金完燮や、日本の保守層を代弁する人物として拓殖大学の教授で済州島出身である呉善花などは、大日本帝国による統治を肯定的に評価する本を執筆している。ソウル大学教授の李栄薫は、大日本帝国の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示するが韓国国内では少数派である。
近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定している。また韓国の外では、ハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートが、韓国での萌芽論は「論理ではなく日本国を弾劾することが目的のもの」としており、近代化萌芽論を強く否定し、韓国の資本主義は植民地化の中で生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は大日本帝国の近代化政策を模したものであるとの研究を公表している。エッカートは大日本帝国による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などをあげ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている。
内地(ないち)と外地(がいち)
植民地という呼称は、新規の領土を旧来の領土に比して特殊な政治制度の下におき政治的従属状態においているものを呼ぶことが多い。
日本の法令で植民地という用語を使用したものはありませんが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前、日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかであるとされてれいます。
法令による規定を見ても、
・内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと
・外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと
・樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど
内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかを議論の対象にすることはほとんどありません。
引用:『韓国朝鮮の歴史と社会』吉田光男・『日本人の歴史教科書』自由社・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2010年3月24日 NO.533号)
☆☆甦れ美しい日本☆☆◎奥山 篤信 偽善者の群れ 歴史共同研究の茶番 北岡伸一と鳥海靖の差
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小泉首相の金大中への提案で行なわれた日韓歴史共同研究報告書が発表された。自国の歴史は自国が書けばよいのであって、他国の合意して書くべき性格のものではなく、こんな提案をした日本政府の馬鹿さ加減はあいた口も塞がらないのが本質である。
安倍首相が提案した日中歴史共同研究の完全敗北はまさに、安倍が御用学者・日和見主義・自虐史観主義の北岡伸一なる男を座長に選んだ瞬間に予測できたが、結果も無残と言うか、日本を永久にジェノサイドの加害者として北岡は認知してしまい、あとは犠牲者の数だけの問題としてしまった。まさに中国側が歓喜したのは言うまでもない。この北岡の罪状は日本歴史史上最大の歴史捏造罪悪人として呪わねばならない。事実に反する南京大虐殺の冤罪を認めてしまったのだから、これは救いがたい犯罪行為である。学者としての真実を検証する努力も行なわず、相手の言うままに認めたのだから、こんな学者は学者としての資格はないわけであり、北岡は即刻東大教授を解任されて然るべきである。
それに比べて日韓歴史共同研究に於ける鳥海靖東大名誉教授は良くやったと評価できる。
新聞報道によると~「近現代」など3分科会に加え、歴史教科書に取り組むため新たに設けた「教科書小グループ」でも従軍慰安婦問題の記述などで歴史認識の溝が浮き彫りになった。委員間には「国益に有害」との意見もあり、今後も政府レベルによる共同研究を継続できるか不透明だ。~
日中の北岡と異なり鳥海は相当頑張った。特に日韓併合についての国際条約として世界に認められた行為について、日本側は堂々と主張している。韓国側は強圧により締結されたもので無効だと主張しているが、当時国際的にもこの条約は認められたであり、韓国の主張は荒唐無稽そのものである。現在の物差しで過去を断罪するなと言いたい。勿論不満もある。あの売国村山談話を駆け込み寺のように、あの保守を自認する安倍ですら認めたから、学者達を非難するのも気の毒だが、日本側は下記のごとく主張している点である。こういう逃げ腰の反論は頂けない。
~日本側は韓国の教科書で平和主義を掲げる日本の憲法9条について記述がないことを取り上げ、「戦後の日本を理解するには、絶対に必要な要素だ」と主張。日韓間の過去の歴史に関する天皇陛下の「お言葉」や、1995年の村山首相談話についても記述がないとし、「明確に記述することが重要だ」と指摘した。~
ともあれ鳥海は日本政府の戦後の自虐史観の流れのなかで良く抵抗したと評価する。繰り返すがあの腰抜け北岡と比べ雲泥の差がある。古き良き東大の伝統的学者を彷彿させた鳥海である。
いずれにせよこのような茶番の歴史共同研究ほど偽善と欺瞞に満ちたものはない!国益に反するので直ちに解散すべきである。
(映画評論家)
「朝鮮には国風文化の歴史がない。」
筑波大学教授・古田博司氏は、『正論4月号』で「朝鮮には国風文化の歴史がない。」という。韓国の歴史教科書に流れる歴史観をまとめておけば、「韓国の歴史が(帯方郡などの)漢四郡の異民族統治から始まること、中国の文物を輸入して国造りをしたという受動的な側面は思考停止し、まずは遅れた日本にそれを変形し、あたえてやったという能動的な側面を強調し、わが国を中心とする東アジア文化圏が形成されたということを知らしめる」ということになろうかと思われる。元より無理のある歴史観であろう。
朝鮮半島の韓国人の祖先が儒教・仏教・算術・暦学、総じて漢学を発展させていた時期に、日本文明圏はかなり遅れていたことを、日韓の左派学者たちはわれわれにあえて喚起しようとする。これらは議論にはなり得ようがない。(中略)
それでも韓国人は自分たちがかつては文化的に卓越していたのだと主張する。だが、七世紀後半に『万葉集』が、八世紀には『古事記』『日本書紀』が編まれ、平安末期に『源氏物語』『鳥獣戯画』などが完成するころに朝鮮半島で花開いたという証拠はどこにもない。半島ではようやく12世紀に正史『三国史記』、十三世紀に野史『三国遺事』が登場するが、前者の記述に「律令」ないしその編目名らしきもの、その条文を修正した法典を指す「格」という文字が見られる。つまり「律令国家」だった、という主張が韓国でなされることがあった。しかし、これらの用語は、少なくとも法令を表す一般的な用語ととらえるべきであり、唐や日本と同様の「律令」を統一新羅が編纂・施行したとことはなかったというのが現在有力な説となっている。
さらに高麗時代(10~14世紀)、となると、『高麗史』『高麗節要』(内容ほぼ同じ)などは、李朝期の子孫が櫃底から見出した乱稿のたぐいしか史料として残されていない。『高麗図経』というシナ宋代の使臣が残した風俗記録帖があるが、肝心の図が失われているため、人びとが当時度のような着物を着ていたのかも分からないのである。韓国のテレビ時代劇に出てくる高麗時代の衣装は、全部推測の産物に過ぎない。『高麗実録』というものも確かにあったと記録にあるが、李朝に入って王権簒奪の正当化をはかるべく、『高麗史』の編纂を終えるや、一片も残すことなく火にくべられた。その後の『李朝実録』が丸ごと残ったのは、近代日本が朝鮮に入り、資料保存に誠心務めたからに他ならない。
率直に述べるに歴史上の朝鮮は、中華文明に対する他律的な文化史かもっておらず、国風文化はついに育たなかったと言うべきであろう。取りあえずの理由としては、李朝漢文はシナ魏・晋・南北朝時代の易しい漢文が主体で、高度な文化内容を展開するには無理があったこと。経済は明朝初期の反商業政策を受け継ぎ、流通は主に粗放なる市場と行商人が担っていたこと、農村には村界がなく、流民化した民が食える村に集まっては有力者の下で奴隷となって生活していたこと。
また、日韓の左派学者たちが古代における両国の活発な交流を仮構するのにもいささか無理がある。日本海は今も昔も渡航が難しいのである。せいぜい船による漢籍の往来と、亡命帰化人の土着ぐらいを現実のものとして把握しておけば十分であり、過度の想像は控えなければならないだろう。
中国・韓国の歴史教科書がいかなるものであっても、彼ら自身のうちでそれを信じているだけであれば、何もいう必要はないと心得る。だがそうではない。彼らは絶えず歴史問題を政争として惹起し、その無理ある歴史をわれわれ日本人に押しつけようとするのであるから、これは明確に言葉の暴力である。暴力には事実の楯でこれを防がなければならない。韓国では、1960年代までは、朝鮮は清の半属国であり、日清戦争により朝鮮の独立が認められたという認識が普通だった。ところが、70年代のナショナリズムの高揚期を経て、80年代には、もともと名目上独立国だったということになり、2000年代にはいると侵略者であるはずの日本が朝鮮の許しを得て治外法権と関税自主権を得たというようになった。
じつは中朝どちらを理解することにおいても、両者を切り離して考えることは本来あまり意味がない。歴史的なセットとして捉えるべきであり、あえて総称すれば「中華文化圏」が適切であろう。そして彼らは歴史上つねに共闘してきた。中国とは絶えず違う民族同士が滅ぼし合うことで王朝を塗り替えてきた。日本のように天皇一統で連綿と2600年つながってきた稀な歴史とは異なる成り立ちである。
近代には、列強の侵略を受ける以前、シナは満州族の支配する清朝だった。(中略)彼らは満州語で、1616年、満州族のヌルハチは、祖父と父を殺害した漢民族の明を滅ぼすことを天に誓い明を滅ぼした。中国の歴史は三国志から他民族が相手国を滅ぼすというこの繰り返しである。
韓国は日本に中華文明圏から切り取られることにより、いったん歴史上初めて独立をし、かつて一度(併合というかたちで)日本文明圏に包摂された。そして大半の昔を忘れたふりをしているのである。
「台湾は日本の生命線!」 永山英樹(台湾研究フォーラム)
■鳩山首相は韓国スターと参政権を語ったか
在日韓国人社会で低下する求心力を回復するため、外国人地方参政権の獲得運動を強化しているともされる在日本大韓民国民団。日本に「相互主義」を押し付けるため、先ずは本国に要求して、在韓外国人への選挙権の付与を一度だけ「試行」する法律を制定させたのだから、大変な勢いだ。
日本生まれ(大阪在日二世)の李明博大統領は在日韓国人への選挙権付与は必要ないとの考え。同じように理性ある在日も多いとされるが、そうした常識的考えなど、一顧だにしていない。二月二十五日には日本人女性にもそこそこ人気の韓国人男優、李瑞鎮(イ・ソジン)さんを民団広報大使に起用した。日本人の民団への警戒心を解くためのソフトパワー行使の策略と見られている。
鳩山由紀夫首相の夫人も大ファンの一人だ。三月十七日には李瑞鎮さんを首相公邸に招き、夕食をご馳走した。その際鳩山首相はこの広報大使に、参政権付与に関するいかなる約束をしたのだろうか。
実は李瑞鎮さんは広報大使の就任前から夫妻と交友関係にあるらしい。民団による起用とそれとは、はたして無関係か。
■民団は「内なる外圧」を演じている
たとえば、
―――日本人はよく、第1の開国=明治維新、第2の開国=敗戦後の復興の、その決定的要因はともに外圧によるものであり、自らの未来ビジョンとして積極的に打ち出したものではないと言う。―――そして、こうした歴史的経緯を踏まえながら、日本自らが積極的に国際的な共生時代と向かい合い、内なる国際化を進めようとの「第3の開国」論をオピニオン・リーダーらが唱え始めてからも、相当な期間が経過してしまった。
これらはご都合主義の主張といえよう。民団は自ら「内なる外圧」となって、「第3の開国」なるものを求めているのではないのか。
■見習うべき在日台湾人の懸命な努力
こんなことも書いている。
―――これまでの第3の開国論は主として、外国人を活用する立場のみから論じられ、外国人の自尊心は顧みられていない。
民族意識を煽って砂の如き国民をまとめるべく、日本を「敵国」に設定して「活用」し、日本人の「自尊心」を傷つけてきた本国政府こそを非難するべきだろう。
―――地方選挙権を求める永住外国人を、日本の内なる国際化を進めるカウンターパートと見る視点が欠落している。
「カウンターパート」と見られたければ、本国と自分自身らを先ず糾した方がいい。
在日台湾人の多くは日本の社会、国民の文化、価値観、感情を尊重することに懸命な努力を払い、日本人との信頼関係を築いてきた。在日韓国人にもそうした努力を行う余地がまだ残されているのではないか。
■韓国人らしい歪んだ日本人観
―――永住外国人地方選挙権をめぐって、「朝鮮人は出ていけ!」と連呼し、付与推進議員に恫喝を加えるウヨクを煽り、永住外国人が日本の安保を阻害する存在であるかのように決めつける付与反対論者も同類である。
竹島、対馬、歴史観等の問題で本国の政府、国民を批判しない限り、在日韓国人は「安保を阻害する存在」と見られる。これも仕方のないことだ。
―――日本人を自分たちの価値観に基づく《日本人》として固めるために外国人をスケープゴートにし、永住外国人をますます周辺に追いやろうとする言動を攘夷と言わずして何と言うべきか。これなどは「韓国人を自分たちの価値観に基づく《韓国人》として固めるために日本人をスケープゴートにし」てきた韓国人らしい、歪みきった日本人観だ。
江戸時代を見ても戦時中を見ても明らかなように、日本人は外国が及ぼす国家への脅威に危機感から平和ボケから目覚め、それで初めて攘夷思想を激発させてきた。穏やかに社会秩序を守る在日外国人に対してなら、無闇に攻撃などしない。
だからそれに続く以下の主張、つまりこの記事が一番言いたい部分だが、これもやはり聞くに値しない。
―――これは必ず、過激分子が桜田門外で井伊直弼を襲撃したように、日本社会への刃となり、第3の開国を遅らせて日本の未来を危うくする。
■運動停止で「敵」でない証を
日本人は永住外国人にさまざまな特権を与えても、「ますます周辺に追いやろう」などとはしていないはず。選挙権付与の反対派ですら、「選挙権が欲しければ国籍の取得を」などと親切に勧めているわけだが、それでも「攘夷」だと日本人を非難するなら、その前に自分たちが、在日韓国人は日本に仇なす「夷」などではないと、身を以って示すべきだろう。
そしてその証の第一歩となるのが、外国人地方参政権の要求運動の取り下げだ。
まず日本の憲法が参政権付与を禁じている以上、それを重んじるべきである。
そしてさらにはこの日本社会を、すでに数では在日韓国人を上回っている在日中国人の影響力から守るためにも、外国人参政権に反対しなければならない。
■中国の前での日韓連帯が共生の道
中国側は国威発揚のため、長野の聖火リレー現場と同様、ソウルでの現場でも大量の中国人を動員したが、あの光景を想起するべきだ。
中国人の暴力行為は長野よりもソウルで熾烈だったが、あれはもしかしたら日本人以上に、韓国人を見くびっていると言うことではないのか。中国人が韓国人の中国に対する抜き難い事大主義を知らないはずがない。
明治時代の日本人が脅威としたのは清国やロシアだけではなかった。そうした大国に擦り寄る韓国人の事大主義もまた然りだった。
こうした経験から、中国の脅威が今後ますます増大化するなか、一つの懸念が日本人の間で抱かれることだろう。
それは「韓国や在日韓国人は、またも中国に同調し、呼応し、寝返って、日本を裏切るのではないか」と言うものである。
民団をはじめ在日韓国人は、日本人と連携して中国の動きを警戒するべきだ。「韓国人はあくまでも日本人とともに東アジアの平和を守る」との意志を示し、日本人の不安を解消し、信頼を抱かせてはじめて、真の日韓「共生」の道が開かれるのではないか。